わくわく原子力ランド


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海外編

【ハンフォード・サイト】
アメリカ合衆国ワシントン州ハンフォード(46.556972,-119.52713)

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1943年〜1998年 プルトニウム精製施設
プルトニウム精製施設.マンハッタン計画で建造され,1998年まで稼働していた. 長崎に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」はここで精製されたプルトニウムが使われている. 当時は秘密主義と放射能に対する認識が薄かったため,コロンビア川には廃液がそのまま垂れ流された. あまつさえ大気中に放射能をまき散らすという意図的な実験が継続的に行われ,27万人が被曝したとされる. 60年代,ハンフォード周辺の住民達には,流産や先天性異常,小児病,心不全,癌が多発し,これまでに数十万人が死亡したと言われている. 今でも年間数万人レベルで発病する人がいると言われる. 現在の施設の状況は惨憺たるもので言葉に尽くしがたい. 全米の高濃度放射性廃棄物のうち三分の二を占める量が,貯蔵とは呼べないほどに老朽化した施設に放置されたままである. 地下水や土壌の汚染は極めて深刻で,西半球で最も放射能汚染の激しい土地といわれている. 除染作業が行われているが,完了する予定は2052年とされている. なお,ハンフォードの風下地区はアメリカ有数の穀倉地帯であり,ここで生産される作物のほとんどが輸出されている. りんご,じゃがいも,小麦,コーン,牧草,蕎麦などで,その大部分を買っているのはファーストフード産業と日本の商社である.

【ウラル核惨事】
ソビエト連邦チェリャビンスク州オジョルスク市(55.697083,60.801516)

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1950年代
マヤーク核施設と呼ばれるプルトニウム生産コンビナートから,大量の放射性廃棄物がテチャ川に垂れ流されていた. 周辺住民12万人が被曝し,白血病,ガン,先天性異常などが発生した.その後,高レベル放射性廃棄物はタンクに貯蔵するようになった.
1957年9月29日 爆発事故
冷却システムが故障し,放射性廃棄物タンクが爆発した.約1万人の付近住民が緊急避難させられたが,放射線後遺症で数百人の死者が出たとされる. さらに1967年には,放射性廃棄物を投棄していたカラチャイ湖が日照りで干上がり,放射能が粉塵となって風で運ばれ周辺が汚染されている. 避難から取り残された村では,現在も4000人が暮らしている.平均寿命は著しく低く,多くの村民が心臓病や骨の痛みを訴えている. 村民が放射能汚染について知ったのはソ連崩壊直後の1992年.避難計画があったこともその時初めて知ったという.

【ウィンズケール】
イギリス ウィンズケール,現セラフィールド(54.4205,-3.4975)

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1957年10月10日 火災事故
世界初の原子炉重大事故とされている.軍事用プルトニウムを生産するウィンズケール原子力工場(現セラフィールド核燃料再処理工場)の 原子炉で黒鉛減速材の過熱により火災が発生,16時間燃え続け,多量の放射性物質が環境に放出された. 原子炉には放射性物質放出防止の構造物がほとんどなく,避難命令も出なかったため,付近住民は一生許容線量の10倍の放射線を受け, 数十人がその後,白血病で死亡したと言われる.事故の事実は30年後に公開され,現在でも危険な状態にある.
2005年5月16日 使用済み核燃料溶液漏洩事故
再処理工場内で使用済み核燃料を硝酸で溶かした溶液が大量に漏洩. 20トンのウランと160kgのプルトニウムが混ざった液体でその量は実に83000リットルである. 「漏れた」のではなく配管の破断による「流出」である. 漏洩したのは無人エリアだが放射線量が高すぎて人が近づくことができず硝酸溶液は設備を溶かし続ける. そのまま工場自体が閉鎖されたと言われているが詳細は公表されていない.

【ラ・アーグ再処理施設】
フランス コタンタン半島ラ・アーグ(49.678765,-1.878018)

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1966年〜 核燃料再処理工場
兵器用プルトニウム抽出および核燃料再処理工場である.現在もアレバ社が運用しており,放射性廃液を大気と海洋に放出している. この地域が選ばれたのは,人工密度が低いこと,ラ・アーグ海峡の海流が非常に早く放射能を拡散しやすいという理由である. テロ対策のためミサイルが配備されることもあるという.Googleマップの航空写真はボカされている.
放射性廃液放出管がここから5kmに渡って敷設されている(49.665826,-1.898843).

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1980年4月15日 シェルブールの停電事件
主電源が停電した際,自家発電によってシステムを復旧させたが,主電源が回復してからも自家発電を停止しなかったため, 電力が供給過剰となり,主電源と自家発電の両方が破損し火災が発生した.幸い,近くのフランス軍施設から緊急発電装置が 持ち込まれ,事無きを得た.あと10分後に予定されていたプルトニウム処理作業が始まっていたら,間違いなく臨界爆発が 発生したと言われている.1970年代,西ドイツのケルン原子炉安全研究所によって,ラ・アーグの施設が爆発した場合, 半径1万km(地球上の半分)が,致命的に汚染される可能性があると報告されていた.

【スリーマイル島原子力発電所】
アメリカ合衆国ペンシルベニア州スリーマイル島(40.154162,-76.724632)

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1979年3月28日 メルトダウン事故
整備中のトラブルによって2次冷却系が停止.そのため炉心を含む1次冷却系の圧力が上昇し,安全弁が開いた. しかし,この安全弁が開いたまま固着してしまい,原子炉冷却材が蒸気の形で大量に失われてしまった. 原子炉は自動的にスクラムし非常用炉心冷却装置(ECCS)が動作したが,空焚き状態になっていたため水位計が正しい水位を示さず, 運転員が冷却水過剰と誤判断して,非常用炉心冷却装置を手動で停止してしまった.このとき1次冷却系も停止していたため, 開いたままになっていた安全弁から500トンの冷却水が流出.炉心上部3分の2がむき出しとなり崩壊熱によりメルトダウンした. 運転員による給水回復措置が取られ事故は収束したが,燃料の約半分,62トンが溶融し,うち20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった. 放射能除去に12年の歳月と約10億ドル(約790億円)を要した.事故が起きた2号機は現在閉鎖されている(1号機は85年から再稼働). 周辺住民への避難勧告は事故から2日目に行われ,約14万人が避難したという. 住民の被曝は0.01〜1mSv程度で,放出された放射性物質は希ガス類が大半,ヨウ素やセシウムは放出されなかったとされる. 事故後の調査によって,健康に影響を与えたという結論は出なかったが,2年後の風下地域における乳幼児死亡率が急に増加したこと, また,馬や牛の繁殖率が著しく低下したことなどの報告がある.

【チェルノブイリ原子力発電所】
ソビエト連邦ウクライナ共和国チェルノブイリ(51.389459,30.102153)

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1986年4月26日 爆発炎上事故
外部電源が喪失しても,自家発電装置が起動するまでのあいだ,蒸気タービンの惰性回転による発電で冷却ポンプを稼働できるかどうか試験を行っていた. 試験の開始に手間取り,原子炉の不安定な状態で強行することになったため,安全装置が手動で切られていた. 試験中に炉の出力が急激に上昇しはじめたので制御棒の挿入を行ったが,設計上の欠陥から出力がさらに上昇,燃料棒は融け,水蒸気爆発を起こした. その後,核燃料を覆うジルカロイ(ジルコニウム合金)と高温の水蒸気の反応による水素爆発が発生し,およそ1000トンあった蓋が破壊された. さらには,黒鉛減速材が黒鉛火災を起こし,ヨーロッパ全土に放射能汚染が広がる原因となってしまった. 周辺住民らの話によると,発電所から赤く光る物体が次々と宙に舞い上がり,まるで花火を見ている様だったという. ソ連政府は事故収拾のために,陸軍兵士やその他の労働者(消防や救急,炭鉱労働者)を派遣したが,大部分がその危険性について 何も知らされておらず,防護服なども使用されなかった.203人が即入院,内31人が死亡し,28人が急性放射線障害だった. 放射性の残骸は原子炉の残骸の中に集められ,ヘリコプターから投下された5000トンの砂嚢で覆われた. その後,原子炉とその中身を封じ込めるために,5ヶ月をかけてコンクリート製の石棺が建造された. ただ,石棺の耐用年数は30年とされており,老朽化への対策が望まれている. 11万人以上の付近住民は,爆発から20時間以上経ってから強制非難させられたが,完了まで数週間かかった. 当初避難は3日間だけと伝えられていたため,着の身着のままで逃げる人が大半だったが,25年経った今でも住民は帰還できていない. ウクライナ,ベラルーシ,ロシアあわせて800万人以上が事故の影響を受けており,そのうち子供は200万人以上である. 100万人以上が被曝が原因で死亡したのではないかとされている. その後,ソ連は崩壊,発電所の管理はウクライナ政府に委ねられ,国内のエネルギー不足のため,残った3つの原子炉の 運転がなおも続けられた. 1991年に2号炉で火災が発生し,修復不能と判断され停止. 1号炉は,国際機関(IAEA)との取り引きの一部として,1996年11月に退役. 2000年11月に3号炉の運転が止められ,全プラントが運転停止した. ベラルーシでは現在でも新生児の85%が何らかの障害を持って生まれているという説もある.
事故処理で汚染されたヘリコプターや車両などが大量に投棄された場所(51.154801,29.982076)

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【トムスク7】
ソビエト連邦セベルスク,セーベルスク,セヴェルスク(56.660331,84.928265)

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1993年4月6日 爆発事故
軍事用再処理施設プラントにおいて,燃料水溶液の酸濃度を調整する調整タンクに濃硝酸を注入した際, タンク内に混入していた多量の有機物と硝酸が反応して爆発し,プラント近辺20kmが放射能で汚染された. 当日は雪が降っており,風速も弱かったので汚染は大して拡がらず,死傷者もなかったとされている.
現在はフランスで再処理された劣化ウランの投棄場所にもなっている(56.620567,84.803252)

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【オンカロ】
フィンランド ユーラヨキ自治州オルキルオト島,オンカロ(61.241443,21.458831)

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2012年〜稼働予定
現在,世界で唯一の高レベル放射性廃棄物の最終処分場である.付近には原子力発電所もある. 2001年に選定,2004年に着工.最終的に地下520メートルのトンネルを掘り廃棄物を地層処分する予定である. 100年後に満杯になった後は坑道を埋め戻して完全に封印する. 放射性廃棄物に含まれるプルトニウムの半減期は2万4000年であり,安全と言えるレベルになるには, およそ10万年の歳月が必要と言われている. オンカロ地下の岩盤には多量の水が確認されており,10万年にわたって施設や廃棄物固化体が健全を保ち, 放射能を封印し続けられるとは到底考えられない.

【蘭嶼(ランユ)島】
台湾 蘭嶼(ランユ)島(22.004817,121.592512)

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1982年〜
台湾では2011年現在,原子炉六基が稼働している.1982年から太平洋に浮かぶ蘭嶼島を低レベル放射性廃棄物の処分場にしてきた. この島が選ばれたのは蘭嶼島の島民が原住民であったからと言われている. 当初,島民には缶詰工場をつくるといった虚偽の計画で処分場の建設が開始された. 放射性廃棄物を詰めたドラム缶が破損したり,勝手に高レベル核廃棄物が持ち込まれたりして,現地で激しい反対運動が起き, 計画ではドラム缶で33万本を処分する予定だったが,1996年に10万本弱を搬入したところで中止を余儀なくされた. それ以来,台湾の各原子力発電所で発生している放射性廃棄物は,搬出できない状態が続いている. ドラム缶の腐食が問題視されており,台風の被害にも度々襲われているという. もしこの島が地震や津波の被害を受けることになれば,大量の放射性廃棄物が黒潮に乗って日本に運ばれる可能性が十分にある.

【レンジャー鉱山】
オーストラリア レンジャー(Ranger)鉱山(-12.683681,132.92397)

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1980年〜
レンジャー(Ranger)鉱山は,オーストラリア北西の都市ダーウィンの東約250kmの位置にあり, 世界最大級のウラン生産量を誇るオーストラリア最大のウラン鉱山である. 資源メジャーであるリオ・ティント(Rio Tinto)の子会社で,エナジー・リソーシズ・オブ・オーストラリア (Energy Resources of Australia)が,生産にあたっている. 1980年に操業が開始されたが,100億リットルの高濃度放射能汚染水の漏出が現在進行中で打つ手が無く稼働は止まっている. 記録的な大雨でダムの放射能汚染水が,鉱山を取り巻くアボリジニ居住地や,世界遺産に登録されているカカドゥ 国立公園の湿地に溢れ出す可能性がある. しかし,もともと汚染水を処理するための施設はなく,この30年,毎日10万リットルの汚染水がカカドゥ地下の割れ目に 漏れ出してきた.汚染水は事故のあった原発だけでなく,燃料採掘鉱山も垂れ流しているのである.

【チベット放射性廃棄物処理施設】
中国チベット自治区放射性廃棄物処理施設(36.523881,101.524787)

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1984年
中国はチベット地域に核廃棄物処理場や核ミサイル基地建設を秘密裏に進めてきた. 1984年には60億ドルでヨーロッパからの使用済み核燃料4千トンをゴビ砂漠に投棄している. この廃棄物は浅層処分であるが,中国政府は「北京からは離れているので充分に安全」としている.

【ジャドゴダ ウラン鉱山】
インド ビハール州・ジャドゴダ(22.65327,86.347057)

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1962年〜
ブッダ生誕の地ともいわれるジャドゴダは先住民が多く住む地域で,インド唯一のウラン鉱山がある. ウランを採掘,製錬する国営のウラン公社(UCIL)は,鉱山や製錬所から出る廃棄物や廃液を何の処理もしないで野ざらしのまま投棄し続けている. 1982年からはインド中部のハイデラバードにあるウラン濃縮工場から送られてきた放射性廃棄物も一緒に捨てているという. 周囲15キロには42の村があり7万5000人が住んでいる.近隣住民の間には,癌,白血病,流産,死産,奇形など先天異常,皮膚疾患など深刻な病気が広がっている. 住民たちは「ジャルカンディー反放射能同盟」を結成してウラン公社を追及し医療援助や補償を求めているが,ウラン公社は今なお「安全だ」と繰り返すだけで,最低限の医療すら提供していない. それどころか村人たちの畑をとりあげ,家をブルドーザーで押し壊して,新たな投棄ダムの建設を強行するなど,ブッダ生誕の地とは思えない行為が現在も行われている.

【ブキメラ村】
マレーシア ブキメラ村(4.562094,101.031185)

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1982年〜1994年
四日市喘息の加害企業でもある三菱化成は,1979年にマレーシアの現地業者などとともにAsian Rare Earth(ARE)を設立し, イットリウムなどレアアースを採掘および精製する事業を始めた. ARE社はマレーシア政府より試運転の許可しか与えられなかったにも関わらず,貯蔵施設を完成させないままフル稼働に入り, 数百トンにも及ぶ放射性のトリウム232(半減期約140億年)を含む廃棄物を工場の裏にあった池や空き地に野ざらしにしていた. 工場のすぐ近くには人口1万人が住むブキメラ村があり,廃棄物を運搬した業者は,それが放射性廃棄物であることを知らされておらず, 化学肥料とも聞かされ,わざわざ畑にまいたり,サッカー場にも捨てたりしたという. 1983年頃から子供たちが白血病にかかり出し,妊婦の流・死産が続出,ダウン症児も多数生まれるようになった. 妊娠中にAREの整地作業に携わった母親が出産した子供は,ゼリーのようにぐにゃぐにゃで自分で体を支えられない「ゼリー・ベビー」であった. 住民の反対運動の結果,1985年には裁判所が操業停止命令を出したが,その後,AREは廃棄物の貯蔵施設を建設し, 裁判所とは別にマレーシア原子力許可委員会から操業の再開を認められてしまった. 1992年には高裁で操業中止の判決が出されたが,1993年にクアラルンプールの最高裁で操業を合法として認める判決が出された. 反対運動のリーダーや弁護士が逮捕され,いまでも投獄されているという. しかし,三菱化成は1994年1月,マレーシアからの撤退を決め問題の工場も放射能汚染を残したまま閉鎖された.

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